SNK・CSS勉強会 2020.12.23

< 徳川家康と静岡 > by Chuusan

江戸幕府を開いた徳川家康は静岡(昔は駿府と呼ばれていました)とのゆかりの深い人物です。家康は生涯に三度駿府に住んでいました。元々の領地は三河(愛知県の東部)でしたが周りを強力な戦国大名に囲まれて(東に今川、武田、西に織田)苦労し続けの前半生でした。駿府との最初の縁は今川氏の人質として7才から18才まで11年間、2回目は本能寺の変のあと江戸に移る前の4年間、3回目は将軍職を家忠に譲って老後の隠居の地として74才で亡くなるまでの9年間駿府を本拠地としていました。(合計24年間!)このため、静岡には家康に所縁のある場所が多く残っています。

  • 人質として過ごした臨済寺
  • 家康が本格的に整備した駿府城
  • 徳川家とのつながりが深い浅間神社
  • 死後最初に祀られた久能山東照宮

1.臨 済 寺

臨済寺は静岡市内にある臨済宗の禅寺です。家康(幼名竹千代)は7才から青年期の18才まで今川家の人質として駿府で過ごしました。当時今川氏は戦国大名として駿河の国を支配しており、隣国の三河の小豪族であった松平家は今川氏と織田氏の間でどちらに帰属するか苦労しておりましたが、結局今川家に服属せざるを得ない状況にありました。

駿府での11年間の間に家康は臨済寺の住職、太源雪斎(この人は今川家の軍師でもあった!)から薫陶を受け、後の天下人たる素養をここで学んだと言われています。現在の臨済寺に竹千代時代の家康の勉学の場であった「手習いの間」が復元されています。駿府時代の家康には人質という暗いイメージはあまりないように思われます。

<竹千代手習いの間>

2.駿 府 城 址

< 復元された旧駿府城の巽櫓(たつみやぐら)> 

家康は1585年(天正13年)今川氏の後駿河に入っていた武田勢を追い払うと、浜松から駿府にり今川氏の居城であった駿府城を大々的に改修し、その後の城の原型を作りました。旧駿府城は幕末の大地震でほぼ全壊し、更に維新後残っていた建物も取り壊されて堀と石垣を除いて往時の姿は失われてしまいました。

戦後、城跡は公園として整備されましたが、平成に入ってから主要な建築物の復元工事が進められて現在は「巽櫓」「二の丸御門」「坤櫓」などが復元されています。肝心の天守の復元も計画されていて、今はそのために天守台付近の発掘調査が行われています。

<駿府城公園内にある家康像(鷹狩が趣味で左手に鷹を乗せています)>

<天守の復元模型と天守台の発掘調査現場>

3.静 岡 浅 間 神 社

静岡浅間神社は駿河の国の総社として格式の高い神社です。駿府城の間近にあり、人質時代の竹千代がここで元服式を行ったこともあって徳川家から大事に扱われてきました。境内には「家康公着初めの腹巻」なるものが残されています。静岡の人にとっては「おせんげんさん」の名で親しまれている神社で私の子供の頃の遊び場でもありました。

4.久 能 山 東 照 宮

家康は元和2年(1616年)に74才で駿府で死去、遺骸は遺言によりここ久能山に埋葬されました。家康の廟所としては日光の東照宮が圧倒的に有名ですが、最初は久能山にあったのです。久能山は駿河湾を間近にした切り立った崖の上にあり海を臨む風光明媚な観光名所です。本殿をはじめ主要な建物は国宝に指定されています。

(余談ですが「麒麟が来る」にことよせて)

徳川家康と明智光秀について
・家康と光秀は実際に会ったことがあったのか。会ったとしたら何処で?
・「麒麟が来る」では織田の人質になった家康と光秀が偶然に出会ったことになっているが、その可能性は?
・安土に家康が信長を訪れたとき、光秀は家康に会っていたのか?料理不手際事件の真相は?
・本能寺の変のとき、家康は光秀に対してどんな感じを抱いたのか?

「麒麟が来る」の最終回が楽しみです。