売茶翁とエヒメアヤメ、コウノトリ
1、売茶翁のお話
先日、佐賀の町を歩いて 通仙亭に立ち寄りました。
折から、立派な佐賀錦のお雛様も飾られていましたが、
その中に「売茶翁」の事が多く取り上げられ、
パネルや掛軸など多くあり見せていただきました。
博識のお方ばかりですので、ご存じかと思いますが・
私なり少し調べてみました。

我が家の菩提寺さまでもあり・・禅寺・黄檗宗・・
後日我が家の菩提寺、正源寺さまで、売茶翁のことを
伺ってみました。
40代のお若い和尚さまですが、一片通りのお話をしてくださいました。また、佐賀市内の同黄檗宗の
お坊様にもtelして伺って教えてくださいました。
売茶翁は1675年佐賀藩医の三男として誕生し
11歳で龍津寺に出家し僧名は月海という
1661年に中国僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」に
よって開創されました。
隠元禅師が京都宇治に開いた、黄檗山(おうばくさん)
萬福寺で中国伝来の文化やお茶に触れ、視野を広め
修業したそうです。
日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に
分類されていますね。
煎茶は長崎の中国僧から習ったとの説もありますが。
晩年洛中に「通仙亭」という庵を構え、茶を売りながら
禅や人の生き方を説いたそうです。
その姿に人々は親しみを込めて「売茶翁」と呼んだ
ということです。
衣類は「鶴氅衣」(かくしょうえ)は、中国風の上衣で、
白地に黒い縁取りで、鶴の羽根をかたどったように袖が
丸くなって いることから、この名で呼ばれています。
売茶翁が好んで着用しており、黄檗宗では、宗門衣として茶会用・道中衣に 用いられています。
この通仙亭には売茶翁のその自由な精神に魅かれるのか
文人墨客が多く集まった、ということから
江戸時代の天才画家、伊藤若冲もその一人。人物画を描かなかった
若冲がただ一人描いたのが売茶翁であり、
売茶翁からもらった
「丹青活手の妙、神に通ず(彩色の素晴らしは正に神業である)」の
一行書を印にし、絵に捺している程心酔していた。
また、巷では
「売茶翁に一服接待されなければ一流の文人とは言えない」と
いわれ、
伊藤若冲や池大雅などが集まり、交流のあったということです。
また、若冲は売茶翁の肖像画も多数書き残しているそうです。
売茶翁が幼い時に出家した寺は。
現在はお堂が焼失し、小さな庵を残すのみだそうですが
売茶翁の顕彰碑や柴山家の墓が建っているということです。
ところまで、通仙亭から5分くらいでだそうですので。
また、折を見て訪ねてみたいと思います。
2.えひめあやめ
佐賀市の北東部に自生するアヤメ科の多年性草木である
”エヒメアヤメ”自生南限地をたずねました。
端午のお節句頃、日本中で咲いている、
日本アヤメにそっくりですが、・草丈が15~20センチメートルほどで従来の 日本アヤメの半分位の背丈なんです。
エヒメアヤメは山地のアカマツなどの疎林下に生育するということで 小型の美しい多年生草本です。
もともとは朝鮮や中国(中北・北東部)を中心に咲いています。
西日本で点々と遺存的に分布し,四国が南限と聞いていましたが、
こちらで見つかって地元の方々の手厚い手入れで
美しい姿がみられました。
このエヒメアヤメの自生している所は、
史跡帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごごいし)の列石線内に
あるそうです。
(神の依り代となる岩石のことを指す名称)
ちょうど桜が散る頃、アヤメとそっくりの花を小さくした姿です。
ここでも、通路や山のあちこちに山桜がみえました。
エヒメアヤメという名は、古くから愛媛県腰折山に自生している
ことが知られていて、あの植物博士・牧野富太郎博士によって
命名されたということです。
大正7年(1918)に神埼市日の隈山で発見されたころは、
みやき町から小城市清水付近の山中に見ることができたそうです。
現在は自生地がここだけに限定されているいうことです。
エヒメアヤメは、アジア大陸と日本列島の西南部との
植物分布関係を研究する上から貴重な価値だと聞きました。