旅のおさらい
前回までの膝栗毛は、弥次さん、喜多さんの出自から始まり、お江戸日本橋から六郷の渡しから戸塚の宿までで終わっています。戸塚宿では大名行列が止宿していたので旅館はオール満杯、運よく宿はずれの、開業したての旅籠に泊まれた経緯はお話しした通りです。宿屋では給仕の女中を口説いたつもりでしたが、あてが外れ悶々と一夜を過ごします。悔し紛れに200文が浮いたと捨て台詞を吐きながらの、出立です。因みに、当時の飯盛り女は旅籠代と同額の200文でした。今の価値に直せば約5,6千円になるようです。

戸塚の宿を出て、汲沢村近辺の風景(今の横浜市戸塚区汲沢町)宿外れの傍示杭が松の間に見える。右手の富士は、まるで丹沢山系を従えているようにも見える。これからちょんがれ坊主にうっかり1文銭に間違えて4文銭を渡してしまいます。
弥次さんは、戸塚で「ちょんがれ坊主」に、一文銭と間違えて「四文銭」を投げてしまってあわてる場面があります。「ちょんがれ坊主」というのは、人家の戸口や路傍に立って、錫杖や鈴などを手にもって坊主姿で、「ちょんがれ節」という卑俗な文句をうたいこんだ歌を歌いながら、銭をめぐんでくれるようお願いした大道芸人です。 寛永通宝は、当初は一文銭だけでしたが、江戸時代後期の明和5年1768に四文銭が鋳造されました。この銅銭の裏側には波形の文様がありました。形は、円形で中央に四角い穴があいていました。一文銭は直径が約2.3センチメートル、四文銭は直径約2.8センチメートルです。大きさが、5ミリしか違わないため、弥次さんは、一文銭だと思って四文銭の方を投げてしまったのでしょう

藤沢宿の入り口で一休みしていると、そこに60がらみの親父が江の島までの道程を聞いてきます。ここでも弥次喜多のおちゃらけは止まりません
弥「そんなら、この道をまっつぐに行けば、遊行さまの寺前に橋があるから」北「んだ、橋といやぁ橋の向こうに粋な女房にいる茶屋があったっけ」弥「それそれ、去年相模の大山に行ったときに泊まった。あの嬶ぁは江戸者よ」北「どおりで気が利いていると思った」爺「モシモシ、その橋からどう行けばいいでしょうか」弥「その橋の向こうに鳥居があるから、そこを真っ直ぐに・・・」北「曲がると田圃に落っこちやすよ」弥「てめえは黙っていろ、そのまま行くと村はずれに茶屋が二軒ある」北「ん、よく腐ったものを食わせる茶屋だ」弥「そりゃ、右側だろう。去年おれが行ったとき左側の店は生きのいい鯛、海老が大皿から飛び出しそうにでかくて、卵とくわい、でっかい椎茸、そして・・・」爺「もしもし、わしは食い物のことはどうでもいいからその先はどう行きます」弥「行き当たりに石の地蔵さんがありやす」北「あの地蔵さんは瘡に効くそうだ。近所の瘡かき女があの地蔵さんで治った」弥「そうだ、瘡といやぁ新道のたぬ吉め、草津に行ったけが、どうなった?」爺「そんなことより、江の島に行く道をおしえてくんさい」弥「ほんにそうだっけ、その地蔵様から、大福町を真っ直ぐ行くと・・・」爺「江の島へいくにも、そんな町がござるか」弥「イヤ、こりゃ江戸の町だっけ」爺さんここにきて、さすがに「江戸のことは聞きもうさない。他の人に聞いてみる」とブツブツ小言をいいながら通り過ぎます。

この江の島道は旧藤沢宿(現在の清浄光寺(通称・遊行寺)周辺)から江の島までの約1里(4Km(キロメートル))を結ぶ旧道で、清浄光寺門前の遊行寺橋はかつて大鋸(だいぎり)橋という名で、旧東海道が境川を渡る橋であった。明治初期まではこの橋のたもとに大きな鳥居が立っており、多くの浮世絵に描かれている。この鳥居は江島神社の一の鳥居と称され、江の島道の入口にあたっていた。鳥居の脇には道標が立っていたという。現在清浄光寺内真徳寺の庭内に「江の島弁才天道標」がある。 ここから国道467号を100メートルほど南下すると、旧江ノ島道への入り口がある。そこから蔵前、遊行通りを通過すると藤沢駅に至る。国道467号は、明治初期まで川でした(境川)


縄手道は畦道で遠くに見えるまん丸い形をした山は高麗山で、その後ろに富士の姿が見える。ここでは奥に向かって「く」の字に表現された道は現在は直線になっています。樹木の合間を上半身裸の早飛脚と、空になった駕籠を担いで駕籠かきが描かれています。ここでも街道脇に立つ平塚宿との境を示す榜示杭が描かれています。

磯の街中にある延台寺(えんだいじ)には、曽我兄弟の兄、十郎祐成の思い人だった大磯の遊女虎御前が亡き十郎を偲んでついには石になった言い伝えが残っています。弥次さん喜多さんも訪れています。

曽我物語は皆さんも良くご存知のことと思います。1193年5月28日の夜、兄弟は工藤祐経の宿所に忍び入り仇を討ちました。兄の十郎祐成はその場で討ち死に、弟の時致は後に捕えられ処刑されました。5月28日に降る雨を「虎が雨」と言い、俳句の季語にもなっています。
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酒匂川は古くから天然アユが豊富で、首都圏有数の好釣り場となっています。小田原で相模(さがみ)湾に注ぎ、古くは丸子(まりこ)川ともよばれましたまた、この川は昔からたびたび洪水が発生、江戸後期に起こった洪水では被災村落がひどく困窮し、二宮尊徳(にのみやそんとく)の尽力により復興したことも広く知られています。酒匂川を超えるともう小田原の客引きが待っています。そこでつい最近、宿を立て直したばかりという宿屋の亭主と出会い、そこに泊まることにしました。

小田原新築の旅籠に泊まります。必ず出てくるエピソードは、喜多さんが五右衛門風呂を踏み抜いてしまう有名な話です。先に入ったのが弥次さんです。浮いている底板を蓋と勘違いし、それを取って入り 直に窯に足をいれ肝をつぶします。江戸っ子の見栄聞いてみるのも業腹見渡せば雪隠のそばに下駄がある。上がってから下駄を隠し何食わぬ顔で次の喜多さんに代わります。やはり熱さに飛び上がって、弥次さんに聞いてみると「初めのうちは、ちょっと熱いが我慢しているうちにだんだん良くなる」と意地悪な返事「馬鹿いえ、入っている間に足が黒焦げになってしまう」と言いながらも結局弥次さんと同じく下駄をはいて入ります。下駄をがたがたやっているうちに風呂の底を踏み割ってしまいます。窯の修理代南鐐一片はかなりの出費でした。仕返しに弥次さんが宿の女と約束している話を聞き、意趣返しをします。これ姉さん、内緒だがあの男はひでえ瘡かきだから感染らよしにしなせえ。お前さんが気の毒だから言っておくが、足は年中雁瘡で乞食坊主の菅笠みてぇに所々に油紙が貼ってある。それに加えて腋臭の臭さ、そのくせしつこい男でかじりついたら離さないなど、あることないことを言って、女は肝をつぶして逃げてしまいます。