旅のおさらい

前回までの膝栗毛は、弥次さん、喜多さんの出自から始まり、お江戸日本橋から六郷の渡しから戸塚の宿までで終わっています。戸塚宿では大名行列が止宿していたので旅館はオール満杯、運よく宿はずれの、開業したての旅籠に泊まれた経緯はお話しした通りです。宿屋では給仕の女中を口説いたつもりでしたが、あてが外れ悶々と一夜を過ごします。悔し紛れに200文が浮いたと捨て台詞を吐きながらの、出立です。因みに、当時の飯盛り女は旅籠代と同額の200文でした。今の価値に直せば約5,6千円になるようです。

戸塚の宿を出て、汲沢村近辺の風景(今の横浜市戸塚区汲沢町)宿外れの傍示杭が松の間に見える。右手の富士は、まるで丹沢山系を従えているようにも見える。これからちょんがれ坊主にうっかり1文銭に間違えて4文銭を渡してしまいます。

弥次さんは、戸塚で「ちょんがれ坊主」に、一文銭と間違えて「四文銭」を投げてしまってあわてる場面があります。「ちょんがれ坊主」というのは、人家の戸口や路傍に立って、錫杖や鈴などを手にもって坊主姿で、「ちょんがれ節」という卑俗な文句をうたいこんだ歌を歌いながら、銭をめぐんでくれるようお願いした大道芸人です。 寛永通宝は、当初は一文銭だけでしたが、江戸時代後期の明和5年1768に四文銭が鋳造されました。この銅銭の裏側には波形の文様がありました。形は、円形で中央に四角い穴があいていました。一文銭は直径が約2.3センチメートル、四文銭は直径約2.8センチメートルです。大きさが、5ミリしか違わないため、弥次さんは、一文銭だと思って四文銭の方を投げてしまったのでしょう

藤沢宿の入り口で一休みしていると、そこに60がらみの親父が江の島までの道程を聞いてきます。ここでも弥次喜多のおちゃらけは止まりません

弥「そんなら、この道をまっつぐに行けば、遊行さまの寺前に橋があるから」北「んだ、橋といやぁ橋の向こうに粋な女房にいる茶屋があったっけ」弥「それそれ、去年相模の大山に行ったときに泊まった。あの嬶ぁは江戸者よ」北「どおりで気が利いていると思った」爺「モシモシ、その橋からどう行けばいいでしょうか」弥「その橋の向こうに鳥居があるから、そこを真っ直ぐに・・・」北「曲がると田圃に落っこちやすよ」弥「てめえは黙っていろ、そのまま行くと村はずれに茶屋が二軒ある」北「ん、よく腐ったものを食わせる茶屋だ」弥「そりゃ、右側だろう。去年おれが行ったとき左側の店は生きのいい鯛、海老が大皿から飛び出しそうにでかくて、卵とくわい、でっかい椎茸、そして・・・」爺「もしもし、わしは食い物のことはどうでもいいからその先はどう行きます」弥「行き当たりに石の地蔵さんがありやす」北「あの地蔵さんは瘡に効くそうだ。近所の瘡かき女があの地蔵さんで治った」弥「そうだ、瘡といやぁ新道のたぬ吉め、草津に行ったけが、どうなった?」爺「そんなことより、江の島に行く道をおしえてくんさい」弥「ほんにそうだっけ、その地蔵様から、大福町を真っ直ぐ行くと・・・」爺「江の島へいくにも、そんな町がござるか」弥「イヤ、こりゃ江戸の町だっけ」爺さんここにきて、さすがに「江戸のことは聞きもうさない。他の人に聞いてみる」とブツブツ小言をいいながら通り過ぎます。

この江の島道は旧藤沢宿(現在の清浄光寺(通称・遊行寺)周辺)から江の島までの約1里(4Km(キロメートル))を結ぶ旧道で、清浄光寺門前の遊行寺橋はかつて大鋸(だいぎり)橋という名で、旧東海道が境川を渡る橋であった。明治初期まではこの橋のたもとに大きな鳥居が立っており、多くの浮世絵に描かれている。この鳥居は江島神社の一の鳥居と称され、江の島道の入口にあたっていた。鳥居の脇には道標が立っていたという。現在清浄光寺内真徳寺の庭内に「江の島弁才天道標」がある。 ここから国道467号を100メートルほど南下すると、旧江ノ島道への入り口がある。そこから蔵前、遊行通りを通過すると藤沢駅に至る。国道467号は、明治初期まで川でした(境川)

藤沢宿から、駕籠屋と掛け合い値切って籠に乗り馬入川に到着します。この川を渡り、平塚を経て大磯に向かいます。

縄手道は畦道で遠くに見えるまん丸い形をした山は高麗山で、その後ろに富士の姿が見える。ここでは奥に向かって「く」の字に表現された道は現在は直線になっています。樹木の合間を上半身裸の早飛脚と、空になった駕籠を担いで駕籠かきが描かれています。ここでも街道脇に立つ平塚宿との境を示す榜示杭が描かれています。

磯の街中にある延台寺(えんだいじ)には、曽我兄弟の兄、十郎祐成の思い人だった大磯の遊女虎御前が亡き十郎を偲んでついには石になった言い伝えが残っています。弥次さん喜多さんも訪れています。

曽我物語は皆さんも良くご存知のことと思います。1193年5月28日の夜、兄弟は工藤祐経の宿所に忍び入り仇を討ちました。兄の十郎祐成はその場で討ち死に、弟の時致は後に捕えられ処刑されました。5月28日に降る雨を「虎が雨」と言い、俳句の季語にもなっています。

酒匂川は古くから天然アユが豊富で、首都圏有数の好釣り場となっています。小田原で相模(さがみ)湾に注ぎ、古くは丸子(まりこ)川ともよばれましたまた、この川は昔からたびたび洪水が発生、江戸後期に起こった洪水では被災村落がひどく困窮し、二宮尊徳(にのみやそんとく)の尽力により復興したことも広く知られています。酒匂川を超えるともう小田原の客引きが待っています。そこでつい最近、宿を立て直したばかりという宿屋の亭主と出会い、そこに泊まることにしました。

小田原新築の旅籠に泊まります。必ず出てくるエピソードは、喜多さんが五右衛門風呂を踏み抜いてしまう有名な話です。先に入ったのが弥次さんです。浮いている底板を蓋と勘違いし、それを取って入り 直に窯に足をいれ肝をつぶします。江戸っ子の見栄聞いてみるのも業腹見渡せば雪隠のそばに下駄がある。上がってから下駄を隠し何食わぬ顔で次の喜多さんに代わります。やはり熱さに飛び上がって、弥次さんに聞いてみると「初めのうちは、ちょっと熱いが我慢しているうちにだんだん良くなる」と意地悪な返事「馬鹿いえ、入っている間に足が黒焦げになってしまう」と言いながらも結局弥次さんと同じく下駄をはいて入ります。下駄をがたがたやっているうちに風呂の底を踏み割ってしまいます。窯の修理代南鐐一片はかなりの出費でした。仕返しに弥次さんが宿の女と約束している話を聞き、意趣返しをします。これ姉さん、内緒だがあの男はひでえ瘡かきだから感染らよしにしなせえ。お前さんが気の毒だから言っておくが、足は年中雁瘡で乞食坊主の菅笠みてぇに所々に油紙が貼ってある。それに加えて腋臭の臭さ、そのくせしつこい男でかじりついたら離さないなど、あることないことを言って、女は肝をつぶして逃げてしまいます。

丸子のとろろ汁

丸子宿は東海道五十三次の宿場、江戸・日本橋から数えて20番目の宿です。

ここの名物はとろろ汁です。

とろろ汁を出す店は何軒かありますが、この丁子屋が最も有名です。

暖簾に「創業 慶長元年」とあります。

とろろ汁を麦飯にかけて頂く簡単な食事です。

丁子屋の前には広重の浮世絵が看板になっています。

丁子屋の中はかなり広く、観光客で大賑わいです。

芭蕉の句碑があります。「梅若菜 丸子の宿の とろろ汁」

旅のおさらい
前回は弥次さん喜多さんが旅に出る前の顛末から日本橋を出立,日本橋を七つ立ち、江戸から、六郷の渉しまで。今回はその続きです。
以前にもお話ししたのですが、4~50年ほど前、六郷の渉しのほんの目の前に住んでいました。通勤や遊びで利用する駅は、京浜急行の雑色駅でした。今は駅名だけ残っていますが
この辺は「ざうしき村」と言っていたそうです。因みに多摩川の上流は丹波川(たばがわ)
下流を六郷川とも呼びます。この中で大甕のある場所が弥次さん喜多さんが一服した万年屋です。
ここでも、お茶らけた二人の会話は全開です。万年やの女をからかい、壁の掛軸の鯉の滝昇りをを見て「おりゃまた、鮒が素麺を食ってる」などと茶化しながら六郷のシジミの入った味噌汁で奈良茶飯で昼食をとります。万年屋の女の呼び込みもこれまた面白い、「おやすみなさいやぁせ、暖かい冷や飯もございやぁす。煮たての魚の冷めたのもございやぁす。・・・」
12,3歳の抜け参りの子供が前になり後ろになり弥次喜多のに付いてきます。「旦那一文くれさい」。弥次「くれてやろうとも、ところでお前どこから来た?」とからかい始めます。「わしら奥州」「奥州はどこから来た?」「笠に書いてありもおす」「奥州信夫郡畑山村長松」弥次「畑山か、おいらも同じところにおったが、ところで、はたやまの、与治郎兵衛どのは達者か」」子供「与治郎兵衛どのは知り申さない与太郎どんならわしらのとなりにあり申す」弥次「おお、その与太郎よ、そこにのん太郎という爺さんがいたはずだ」「爺々はあり申す」弥次「そして与太郎のかみさんは女だったっけ」「おっかぁさまは女であり申す。よく知ってなさる」弥次「おいらがいた頃の名主どのは熊野伝三郎といって、そのかみさんは飼っていた馬とねんごろになって駆け落ちしたけどその後どうなったか」子供「よく知っていなさる。庄屋のおっかさんは内野馬衛門という男と駆け落ちし申した」抜け参りの子供はだんだん疲れて遅れがちになります。弥次さん「なんで後ろに下がる。くたびれたか」小僧「わしゃひもじくなりもおす」弥次餅を5,6ケ買ってやります。餅を食っているのを見た、別の子供が「おいおい長松やいだれに買ってもらった」「先に行く人に国の話をするとすぐに買ってくれるよ」子供、弥次さんをつかまえ「わしにも餅買ってくれろ」弥次さん「てめえはどこだ、」笠の書付を見て「ハハアこれも奥州下坂出か、手前の村に与茂作という親父がいるだろう」子供「先に餅買ってくれさい、そうしなければ、あんたの言うこと、あたり申さない」弥次さん「おきやがれ。はヽヽヽヽ」

東海道は保土ヶ谷に差し掛かるころ、とめ女(旅籠の客引き)に遭います。顔は真っ白に塗りたくりさながら面をかぶったようです。いずれも井の字絣の紺の前垂れを〆誰彼となく袖を引っ張ってきます。客は、「これこれ手がもげらぁ」、「手はもげてもよふございます。お泊りなさいませ」「ばかぁいへ手がなくちぁおまんまがくわれねぇ」「お飯の召し上がれネ方が猶かってさ(都合がいい)」などかなり強引な客引きです。話は変わって、客のほうも負けていなません「湯はぬるくてもよふござる。おかずはいり申さない。飯と汁はたった6,7杯でよふござる。明日の昼食はこの柳ごりにいっぱい詰めてもらえば十分」宿代はまけてくれろという。これにはさすがの止め女も呆れるばかりです。
横浜市、保土ヶ谷区と戸塚区の境目は武蔵国と相模国の国境でした。旧権太坂に位置する、このあたりは見晴らしのよい高台でした。この浮世絵に描かれている「こめや」はもともと米屋だったのが、その地の利を生かして旅人に軽食を出すは立場と呼ばれる休憩所として繁盛しました。名物は牡丹餅(ぼたもち)旅人にとっては甘いものは何より疲れをいやすエネルギー源だったに違いありません。
因みに、正月の恒例行事箱根駅伝で有名な権太坂は1802年(享保2年)の頃は別の場所でした
はやくも日は西に傾き、山の向こうに暮れかり、戸塚の駅まで道を急ぎます。戸塚では保土ヶ谷と打って変わって、止め女も見当たりません。どこかの大名がお泊りとみえて「何々さまお宿」の貼り札がしてあります。宿場の外れまで来ても旅籠が見つからず、たまたま大名一行のご指名を外れた宿が見偶然に見つかります。本日店開きで酒も肴もロハ、こうなればしめたもの早速茶碗酒、喜多さん曰く「ときに肴は。蒲鉾も白板だ、タネは鮫じゃねえな、鯛か海老だぜ、漬け生姜に車蝦とはシャレたもんだ」と悦に入っています。吸い物も麹ぬきの玉味噌と違い赤みそ、酒のお替りも宿の女中が運んでくる。つい酒が回って、女中を口説きますが全く相手にされません。仕方なく冷たい布団に潜り込みますが、なかなか寝付かれず一晩を過ごします。

富士山の山頂へ至るコースは4つ。その中で、登山客の半数以上が利用している最もポピュラーなコースは吉田登山ルート。                                      登りの登山道に15軒以上の山小屋があり、どの山小屋からも早朝にご来光を見る事ができる。河口湖口をスタートして富士スバルライン五合目まで、バスで樹林帯の中を登っていく。

5五合目の風景 (標高2300m)  五合目からかすかに見えた富士山(16:00) 

五合目→六合目、七合目を目指して出発。 ダテカンバの樹林帯。 木々がまばらになり、丈が低くなって樹林が開ける。 ジグザグに登ってくる登山者の列 。 貸馬で登る人。ブルトーザーで登る人。

森林限界を超えると岩混じりの荒原、砂利や小石の砂礫地が広がり、富士山特有の景観になる。 七合目の宿泊小屋「花小屋」19:00到着 (標高2700m) 夜出発する登山者は先に仮眠して、夜中に出発する。

         「富士山の高山植物」

荒原や砂礫地は養分となる土や水分に乏しく、砂利の斜面は崩れやすいうえ、強風にさらされるなど植物が育つには厳しい環境となる。
その環境の中でも標高3300mの八合目までには岩場の陰などに可憐な花が多く見られる。 現在日本の高山で見られる高山植物は、約1万5000年前、氷河期に、平地で分布していたもの。やがて地球の気候が暖かくなると、平地で繁栄していた植物は温度のより低い高地に逃れるようになった。
 ところが、富士山が現在の姿になったのは約1万年前のこと。植物が高山に逃れた後で、富士山では独自の高山植物が生育しました。
したがっ
暖かくなると、平地で繁栄していた植物は温度のより低い高地に逃れるようになった。
 ところが、富士山が現在の姿になったのは約1万年前のこと。植物が高山に逃れた後で、富士山では独自の高山植物が生育しました。
したがって、

他の山の高山植物と富士山の高山植物は生い立ちが異ななる為、日本の代表的な高山植物のほとんどは富士山では生育していない。

八合目の山小屋「太子館」(3100m) 休憩と頂上までの荷物の整理をする。

頂上目指して登る。ガスが取れ稜線がクッキリ

     富士山頂 浅間大社奥宮                                  

SNK・CSS勉強会 7月14日           

<shotocut>設定等について勉強!

(By kiraku)

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日本勢のメダルラッシュに感動の五輪観戦です\(^o^)/ 今大会は若い方々の活躍が目立ちますね!

NHK youtube開会等へリンク

(8/8)無事<東京五輪2020>終了!                                               NHK youtube閉会式へリンク

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京都祇園祭

7月の<ワードプレス投稿>為。。7月風物詩画像>をストックアルバムから探した! <2016.7.(16日~17日)CSS女子会数名で京都祇園祭見学旅行の画像を見い出した!👇

開催期間:7月1日~31日[山鉾巡行]
前祭:7月17日 / 後祭:7月24日祇園祭

京都祇園祭の山鉾行事は京都市東山区祇園に祀られる八坂神社の祭りに行われる行事で、夏に発生しやすい疫病を除けることを祈願して行われる。1,000年近く前から始まったとされ、14世紀から15世紀には山形に松等の常緑樹を挿した舁山や屋根の上に真木がそびえる鉾等が出る祭りとしての形が整い、16世紀末頃には京都の町衆の富と心意気を示すように豪華絢爛な織物などを幕として懸け、錺金具や彫り物などにも凝るようになった!
2016年 ユネスコ 無形文化遺産保護条約 「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に「山・鉾・屋台行事」として登録(2009年「京都祇園祭の山鉾行事」として記載)重要無形民俗文化財(風俗慣習:祭礼(信仰))昭和54年2月3日指定                 ===HPより===

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 <山鉾巡行の先頭を行く長刀鉾>web検索し<SankeiNews>youtubeをお借りしました!

<16日宵山~17日山鉾巡行まで>時間をかけての見物は豪華絢爛;優雅さの中にも歴史を感じる祭を堪能した記憶が戻ってきました。。

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400年の歴史を持つ<京都・錦市場>

7月16日AM10時過ぎには京都着<京の台所>と称れることの多い <錦市場>にて昼食。。又ここは江戸時代の有名な画家<伊藤若冲>の生家が!      

 

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宇治平等院

梅干し・らっきょ

今年もこの季節の手仕事が終わりました。毎年のことですが、仕込み終えると”ホッ”とします。野菜やさんの話では、年々作る人が減少していると!若い人達が食べなくなったかナ?いつまでも、残していきたい食べ物です。ところで、皆様は、春の花の代表 梅・桜・桃 の花の違いがわかりますか?「???」調べてみました。

梅の花

・花びらが丸くなっているのが梅の花の特徴

・花は小さく約1㎝~3㎝

・花の色は、白・ピンク・赤など

・緑色の軸の部分がなく、花は枝にくっついたように咲く

・花芽が一節につき1個のため花の数は少なめ

桜の花

・花びらの先に切り込みが入っているのが桜の花の特徴

・花の色は、白・ピンクなど

・緑色の軸の部分が長く、枝から垂れるように咲く

・一節に複数の花芽がつき花数が多い

・垂れるように咲くので基本的に花は下向き

桃の花

・花びらがとがっているのが桃の花の特徴

・花の色は、白・ピンク

・緑色の軸の部分はあるが短く、花は枝に沿うように咲く

・花芽が一節につき2個のため梅よりも花の数が多く咲く

・同じ節から2輪咲くので、上向き・下向きなど様々な方向を向いて咲く

担当 oryo

安武町の史跡探訪と散策

①古町の荒神社      古町は海津城の城下町町でした。荒神社は古町の鎮守神です。

②住吉番所跡  江戸時代  かって港町であった住吉置かれた、船人の往来を取り締まるための番所               跡です。

③海津城跡   室町時代  安武安房守の居城。海津城の名は安武小学校の校歌にも登場します。

④安政の道しるべ江戸時代  安政4年(1857)、柳河往還と府中道との分岐点に立てられた道しるべです。

⑤目安町の一里塚 史跡安武天然記念物 元禄年間81688-1704)以前に、柳河往還沿いに設けられた一里塚で                   、市内で唯一残っているものです。

⑥八幡神社拝殿 有形文化財(建造物) 高良山にあった明静院の本堂を移築して再建したものと伝えられ                   ています。

安武町散策 筑後大堰→錦鯉の養鯉→福祉施設ポレポレ→下筑後川漁業組合

スライドショー 旧石器時代から平安時代(約800年前)の安武における人々の生活の痕跡を展示

2021.4.14 CSS講座について  kiku

医療従事者のコロナに対するご苦労に感謝し、1日も早い収束を願い元の生活に戻れる日を待ち望んでいます。

コロナが始まり休校して1年を過ぎましたが、未だ収束の兆しはなく、感染が再拡大している様です。

4月5日~5月5日の31日間「大阪・兵庫・宮城まん延防止適用へ」いつになったら以前のような安定した生活に戻れることでしょう?
ZOOMでの皆様との交流会楽しく参加させて頂いています。

売茶翁とエヒメアヤメ、コウノトリ

1、売茶翁のお話

 先日、佐賀の町を歩いて 通仙亭に立ち寄りました。
 折から、立派な佐賀錦のお雛様も飾られていましたが、
 その中に「売茶翁」の事が多く取り上げられ、
 パネルや掛軸など多くあり見せていただきました。
 博識のお方ばかりですので、ご存じかと思いますが・
 私なり少し調べてみました。

 我が家の菩提寺さまでもあり・・禅寺・黄檗宗・・
 後日我が家の菩提寺、正源寺さまで、売茶翁のことを
 伺ってみました。

40代のお若い和尚さまですが、一片通りのお話をしてくださいました。また、佐賀市内の同黄檗宗の
お坊様にもtelして伺って教えてくださいました。

 売茶翁は1675年佐賀藩医の三男として誕生し
 11歳で龍津寺に出家し僧名は月海という

 1661年に中国僧「隠元隆琦(いんげんりゅうき)禅師」に
 よって開創されました。
 隠元禅師が京都宇治に開いた、黄檗山(おうばくさん)
 萬福寺で中国伝来の文化やお茶に触れ、視野を広め
 修業したそうです。

 日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に
 分類されていますね。

 煎茶は長崎の中国僧から習ったとの説もありますが。
 
 
 晩年洛中に「通仙亭」という庵を構え、茶を売りながら
 禅や人の生き方を説いたそうです。
 その姿に人々は親しみを込めて「売茶翁」と呼んだ
 ということです。

 衣類は「鶴氅衣」(かくしょうえ)は、中国風の上衣で、
 白地に黒い縁取りで、鶴の羽根をかたどったように袖が

 丸くなって いることから、この名で呼ばれています。
 売茶翁が好んで着用しており、黄檗宗では、宗門衣として茶会用・道中衣に      用いられています。

 この通仙亭には売茶翁のその自由な精神に魅かれるのか
 文人墨客が多く集まった、ということから
 江戸時代の天才画家、伊藤若冲もその一人。人物画を描かなかった
 若冲がただ一人描いたのが売茶翁であり、
 売茶翁からもらった
 「丹青活手の妙、神に通ず(彩色の素晴らしは正に神業である)」の
 一行書を印にし、絵に捺している程心酔していた。
 また、巷では
 「売茶翁に一服接待されなければ一流の文人とは言えない」と
 いわれ、
 伊藤若冲や池大雅などが集まり、交流のあったということです。
 また、若冲は売茶翁の肖像画も多数書き残しているそうです。 

 売茶翁が幼い時に出家した寺は。
 現在はお堂が焼失し、小さな庵を残すのみだそうですが
 売茶翁の顕彰碑や柴山家の墓が建っているということです。
 ところまで、通仙亭から5分くらいでだそうですので。
 また、折を見て訪ねてみたいと思います。

2.えひめあやめ

 佐賀市の北東部に自生するアヤメ科の多年性草木である
 ”エヒメアヤメ”自生南限地をたずねました。
 端午のお節句頃、日本中で咲いている、
 日本アヤメにそっくりですが、・草丈が15~20センチメートルほどで従来の    日本アヤメの半分位の背丈なんです。

 エヒメアヤメは山地のアカマツなどの疎林下に生育するということで   小型の美しい多年生草本です。

もともとは朝鮮や中国(中北・北東部)を中心に咲いています。

 西日本で点々と遺存的に分布し,四国が南限と聞いていましたが、
 こちらで見つかって地元の方々の手厚い手入れで
 美しい姿がみられました。
 このエヒメアヤメの自生している所は、
 史跡帯隈山神籠石(おぶくまやまこうごごいし)の列石線内に
 あるそうです。
 (神の依り代となる岩石のことを指す名称)

 ちょうど桜が散る頃、アヤメとそっくりの花を小さくした姿です。
 ここでも、通路や山のあちこちに山桜がみえました。

 エヒメアヤメという名は、古くから愛媛県腰折山に自生している
 ことが知られていて、あの植物博士・牧野富太郎博士によって
 命名されたということです。

 大正7年(1918)に神埼市日の隈山で発見されたころは、
 みやき町から小城市清水付近の山中に見ることができたそうです。

 現在は自生地がここだけに限定されているいうことです。
 エヒメアヤメは、アジア大陸と日本列島の西南部との

 植物分布関係を研究する上から貴重な価値だと聞きました。

3・小郡市大添堤で見た コウノトリ!

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css勉強会 2021/03/10 

2020February~2021March Bird Watching

◆小郡市大添堤 コウノトリ

コウノトリのバードウオッチングは初体験でしたが、堤の水の上に丸くなって浮かんでいる水鳥たちの可愛らしいこと。まっすぐ伸びた細長い足、何とうらやましいことでしょう。この日にウオッチングできたのは、コウノトリ、クロツラヘラサギ、マガモ、カワウ、アオサギ、オシドリ、セイタカシギです。

セイタカシギは、湿地、干潟、湖沼や水田などに生息する。体長は 40cm ほどだが、付け根から指先まで 25cm ほどもある長い脚が特徴で、和名背高鷸もこの脚に由来する。足は赤または桃色で、翼は灰色、首筋から腹部にかけては白、嘴は黒という体色で、地味な鳥が多いシギ類の中でも目立つ体色である。夏羽では頭頂部から後頭部にかけてが黒くなり、冬羽では白または灰色になる。長い脚で水辺を歩き回り、昆虫や小魚、エビやカニなどを捕食する。脚が長いぶん、干潟などの浅瀬で競合するサギや他のシギ・チドリ類よりも深い場所にまで足を延ばすことができる。別名「 水辺の貴婦人」 といわれている。


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◆庭に来る鳥 ジョウビタキの巻

昨年より、自粛期間中に庭に来る鳥をカメラに収めてきました。鳥の見分けもつかなかった私がこの一年で少しですが人並みに近づきました。色や形が似通っているので遠目に見ると見分けがつきません。鳴き声がすると、窓際に私が現れるので小鳥も注意深く家の方を見てすぐ飛んでいってしまいます。鳥の方から見ると私はストーカーのように思われているのかもしれません。

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おまけを3つほど。カメラぶれぶれで見苦しい箇所多々ありですがご容赦願います。(_ _)

これからは、海や山にバードウオッチングに出かけてみたいです。カメラ片手に颯爽と!撮った画像は編集してyoutubeにアップロードしていきたいと思います。皆さんも一緒に出かけましょう!

担当はAidaでした。